読める。でも、しんどい。―ディスレクシアの「易疲労性」を考えるー
「読めているから大丈夫」は本当か
読み書きの困難というと、まず「読めるか、読めないか」が気になります。
文字を正しく読めるか。
文章をある程度の速さで読めるか。
内容を理解できているか。
もちろん、どれも大切です。
ただ、ここで一つ考えてみたいことがあります。
「読めている」という結果だけで、その人の読みの困難さは十分に分かるのでしょうか。
たとえば、授業中には教科書を読めている。音読もできる。テストでもある程度点が取れている。短い検査課題でも大きな問題は見られない。
それでも、読み終わったあとにぐったりする。長い文章になると急に集中が続かなくなる。学校では頑張れていても、家に帰ると何もしたくなくなる。宿題や読書を強く嫌がる。
こうした様子があると、「読むのが嫌いなのかな」「集中力の問題かな」「もう少し慣れれば大丈夫」と考えたくなることがあります。
でも、別の見方もできます。
読むことそのものに、周囲からは見えにくい大きな負荷がかかっているのかもしれません。
読み書きの困難は、「できる・できない」だけでは捉えきれません。
今回考えてみたいのは、その間にある「どれくらい負荷をかけた結果、それができているのか」という視点です。
正確性と流暢性だけで足りるのか
読み書きの評価では、まず正確に読めるか、そしてどのくらい滑らかに読めるかを見ることが多くあります。
読み間違いが多いのか。
読む速度が極端に遅くないか。
一文字ずつ拾うような読み方になっていないか。
こうした正確性や流暢性は、読みの状態を考えるうえでとても重要な手がかりです。
ただし、ここで注意したいことがあります。
多くの検査や課題は、比較的短い時間の中で行われます。数十秒、数分という限られた時間であれば、かなり頑張って力を出せる人もいます。
一方、学校生活の「読む」は、それだけでは終わりません。
教科書を読む。
問題文を読む。
板書を写すために文字を見る。
資料を読み、内容を考え、次の課題に取り組む。
こうした活動が、授業の中で何度も繰り返されます。
つまり、短い課題で「読めた」ということと、同じ読みを長い時間、無理なく続けられることは、必ずしも同じではありません。
読みの困難を考えるときには、正確性や流暢性に加えて、
その読み方を、どのくらいの時間、どのくらいの負荷で続けられるのか。
という視点も必要になります。
易疲労性とは何を見ることなのか
「易疲労性」という言葉だけを見ると、単に「疲れやすい」という意味に聞こえるかもしれません。
でも、読み書きの場面で見たいのは、もっと具体的な実態に即した状態ですな
たとえば、
読み始めたときと、しばらく続けたあとで、速度や正確性が変わるか
読み続けるために、どのくらい強い集中や努力が必要か
読み終わったあとに、理解したり考えたりする余力が残っているか
次の課題に移るまでに、どのくらい回復を必要とするか
といったことです。
つまり、易疲労性は「疲れたと言うかどうか」だけで判断するものではありません。
むしろ大切なのは、同じパフォーマンスを維持するために、どれくらいの資源を使っているのかを見ることです。
一見すると同じように読めている二人でも、一人は比較的少ない負荷で読めていて、もう一人は強く集中し、何度も読み直し、かなりの努力を使って同じところまでたどり着いているかもしれません。
外から見える「結果」は同じでも、そこに至るまでの過程は同じとは限らないのです。これを「出来ているから同じ」とするとゆくゆくはこどものやる気や効力感にも影響しかねません
そして、その違いは、課題が長くなったときや、読み書きが一日の中で何度も繰り返されたときに、少しずつ表に出てきます。
だから私は、易疲労性を見るときに、「どれだけできたか」だけでなく、「どれだけ使ったか」「そのあと何が残っているか」を見ることが大切だと考えています。出てくるのが、「易疲労性」という考え方です。
「できている」ことと「負荷が少ない」ことは同じではない
読み書きの困難が見えにくくなる理由の一つに、代償できてしまうことがあります。
語彙や文脈から意味を補ったり、何度も読み直したり、強く集中したりすることで、結果として課題をこなせる人もいます。
すると周囲からは、「読めている」「できている」と見えます。
でも、ここで大切なのは、
できていることと、少ない負荷でできていることは同じではない
ということです。
同じ結果にたどり着いていても、そのために使っている時間や注意、努力は人によって違います。
言い換えれば、Performance ≠ Processing costです。
だからこそ、読み書きの評価では、目の前の正答や速度だけでなく、その結果を出すためにどのくらいの負荷がかかっていたのかにも目を向ける必要があります。
「読めたか」から「どれだけ使ったか」へ
読み書きの困難を考えるとき、私たちはどうしても「できたか、できなかったか」という結果に目を向けがちです。
もちろん、結果を見ることは大切です。
ただ、それだけでは見えないことがあります。
同じように読めていても、そのために使っている注意や努力は違うかもしれない。
短い時間ならできても、続けることで急に負荷が大きくなるかもしれない。
その場では課題を終えられても、そのあとに考えたり、学んだりするための余力がほとんど残っていないかもしれません。
だから、読み書きの評価では、
「読めたか」だけでなく、「読むためにどれだけ使ったか」を見る。
そんな視点も必要だと思います。
易疲労性に目を向けることは、「疲れやすい人」を探すことではありません。
結果の背後にある負荷を見ること。
そして、その人が学び続けるための余力が残っているかを見ること。
そのための一つの大切な視点です。
支援について考えるときも、「できるようにする」ことだけではなく、できるために必要な負荷をどう下げるかという発想が重要になります。
なお、こうした「できる・できない」だけでは捉えにくい学びの困難や、その背景にある負荷については、近く日本評論社から刊行予定の本でも、もう少し広い視点から扱っています。
このあたりは、レターでもまた別の機会に掘り下げてみたいと思います。
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