「見つける」だけでは支援にならない
―発達障害と不登校の最新調査から考える、学校の支援のあり方―
はじめに ―インパクトのある数字ほど少し丁寧に読むー
今回、文部科学省から、発達障害のある児童生徒等の不登校と、学校における支援体制との関連を検討した調査報告が公表されました。
発達障害と不登校は、どちらも関心の高いテーマです。そのため、こうした調査で大きな数字が示されると、つい「発達障害だから不登校になりやすい」「この支援がなかったから不登校になった」と、分かりやすい因果関係にまとめたくなります。
ただ、今回の報告は、むしろそう単純に読まない方が面白いと思っています。
この調査は、全国の小中学校を対象に、令和6年度の状況について学校側に回答を求めたものです。回答は432校、回答率は27.5%で、地域によって回答数にばらつきがあることも報告書自身が明記しています。したがって、この結果だけから「ある支援が不登校を防いだ」「ある状態が不登校を引き起こした」といった因果関係まで結論づけることはできません。
それでも、今回の結果にはかなり重要な手がかりがあります。
私が特に気になったのは、単に「どの子どもで不登校率が高かったのか」ではありません。
困りごとは、どの時点ですでに見えていたのか。
その情報は、実際の支援に変わっていたのか。
学校の中で、どのような支援の仕組みが動いていたのか。
困難が大きくなった後の個別対応だけでなく、普段の授業や環境はどう設計されていたのか。
そして、その情報は次の学年、次の学校へ引き継がれていたのか。
こうした視点で読み直すと、今回の調査は単なる「発達障害と不登校の関連」を示した報告とは少し違って見えてきます。
今回、私が考えてみたいことは「発達障害があると不登校になりやすいのか」という単純な問いではありません。
むしろ、困難が見えたあと、それを学校がどう支援へ変換するのか。そして、困難が大きくなる前に何ができるのか。という問いです。
これは、子どもの困難を「早く見つける」ことだけでは終わりません。見つけた情報を授業や環境の調整につなげ、必要に応じて支援を変え、その情報を次へ引き継いでいくところまで含めて考える必要があります。
まずは、今回の報告で最も目を引く数字の一つから見てみましょう。
「把握すること」と「支援すること」は同じではない
今回の調査でもう一つ興味深いのは、子どもの困難を把握していることと、学校の中で支援が実際に機能していることは、必ずしも同じではなさそうだという点です。
文部科学省は、不登校の未然防止につながり得る20の支援策について、それぞれの実施状況と不登校率との関連を検討しています。
その中で、「特別な教育的支援を必要としている児童生徒を把握し、教職員間で状況を共有する」という項目は、不登校率の低さと関連する傾向はみられたものの、統計的には有意ではありませんでした。一方で、特別支援教育の校内委員会やケース会議が十分に機能していることは、不登校率の低さと有意に関連していました。
ここはかなり重要だと思います。
子どもの困難について「知っている」ことと、その情報を使って「何かが変わる」ことの間には、まだ一段階あります。
たとえば、「この子は読むことに時間がかかる」「書く課題で手が止まりやすい」「最近、授業中の回避が増えている」と教職員間で共有されていたとしても、それだけでは子どもの学習環境は変わりません。
その情報をもとに、
課題量をどうするのか。
提示方法をどう変えるのか。
評価方法をどうするのか。
本人が困ったときに、どのように助けを求められるようにするのか。
誰が、いつ、どの場面で支援するのか。
そこまで具体化されて、はじめて「把握された情報」が「支援」に変わります。
少し極端に言えば、「この子は読みが苦手です」と職員室で共有しても、それだけでは教科書は一文字も読みやすくなりません。
情報共有はとても大切です。ただし、情報共有そのものを支援のゴールにしてはいけない、ということだと思います。
そして、この話はさらにその前段階にも広がります。そもそも、子どもの困難はいつも分かりやすく表に出るとは限りません。「困っています」「助けてください」と本人が言葉にできれば分かりやすいのですが、実際にはそう単純ではありません。
授業中に手が止まる。
課題を避ける。
遅刻が増える。
保健室に行くことが増える。
宿題になかなか取りかかれない。
家に帰ると何もできなくなる。
困難は、こうした行動や生活上の変化として表れることもあります。
さらに忘れてはいけないのは、困っていることに気づいていても言えない子どもだけでなく、自分がどこで、どのように困っているのかを十分に自覚できない子どもも少なくないということです。
長く同じ困難を抱えていると、それが本人にとっては「いつものこと」になっている場合があります。
読むととても疲れる。
書くと時間がかかる。
周囲についていくために、いつもかなり無理をしている。
それでも、それしか経験したことがなければ、「みんなも同じくらい疲れている」「自分が頑張れていないだけ」と受け止めてしまうこともあります。
ですから、本人から援助希求が出ていないことを、そのまま「困っていない」と解釈することはできません。
ここで必要なのは、「支援を求めたか/求めなかったか」という二項対立ではないと思います。
大切なのは、
困難が顕在化しやすい環境だったのか。
本人が自分の困難に気づくことができたのか。
気づいた困難を安心して表出できる環境だったのか。
本人がまだ言葉にできない変化も、周囲が汲み取れる仕組みがあったのか。
そして、そこで把握された情報が、実際の支援にまでつながったのか。
という一連の過程です。
つまり、学校に必要なのは「相談窓口があること」だけではありません。
困りごとが表に出ても大丈夫だと思えること。
そして、本人がまだ「助けて」と言えない段階でも、周囲がその変化を困難のサインとして汲み取れること。
そうした環境や仕組みがあって、はじめて困難の把握は支援への接続に変わります。
「助けて」と言えた子だけを支援できる仕組みでは、早期支援にはなりません。
本人自身もまだ気づけていない、あるいは言葉にできていない困難を、学校側がどのように汲み取り、どのように支援へ変えていくのか。
今回の結果は、単に「子どものことをよく知りましょう」という話ではなく、学校が情報を支援へ変換する仕組みを持てているかという問題を示しているように思います。
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さあ、ここからが解釈の本番です ―「有意だった/有意でなかった」をどう読むか
ここまでは、今回の調査で示された概要を中心に見てきました。ここからは少し踏み込んで、なぜこのような結果になったのかを考えてみたいと思います。もちろん、ここから先は報告書が直接証明したことではなく、今回の結果から考えられる仮説です。ただ、こうした調査は「有意だった支援策」を並べるだけでは少しもったいない。むしろ、有意だったものと、有意ではなかったものの並び方そのものに、学校支援を考えるヒントがあるように思います。