頑張り切らせないADHDの子どもの学習環境支援
―注意資源を残して終えるための「入り口」と「出口」の設計―後編(全3回)
過集中を止める前に、過集中しなくて済む環境をつくる
「やったらできるんだから、やればいい」
言ったことがある人も、言われたことがある人も少なくないと思います。けれども、少し乱暴に言えば、これは「エンジンがあるのだから、スターターやバッテリーがなくても車は走るはずだ」と言っているようなものです。
たしかに、課題に取りかかればできることはあります。しかし、「取りかかればできる」という事実は、何を目的に始めるのか、どこへ向かうのか、どこで終わるのかが分かっていることを意味しません。目的地も終了地点も曖昧なまま、とりあえず車を走らせているような状態であれば、いつゴールに着くのかも、どこで止まればよいのかも分かりません。
そして、「あとは本人がやるだけ」という言葉は、本人がそれをできると思えているか、最初に何をすればよいか分かっているかとは関係なく、「とりあえず行け」と背中を押しているだけになりがちです。
問題になっているのは、課題を最終的にできるかどうかだけではありません。エンジンが動くかどうかではなく、始動できるか、進む方向が分かるか、どこまで進めばよいかを見通せるか、適切なところで速度を落とし、止まり、次の行動へ移れるかという一連の過程です。
「やればできる」という言葉は、この過程にかかる認知的コストを捉えないまま、始めることも、続けることも、止めることも、すべて本人の努力へと押し戻してしまいます。
同じ課題ができたように見えても、そのために支払ったコストは同じではありません。自分で目的を理解し、「これならできそうだ」と思って取り組む場合と、叱られたくない、失敗したくない、周囲を失望させたくないという緊張や不安によって自分を動かす場合とでは、開始や持続に必要な負荷は大きく異なります。
後者では、課題そのものを処理するだけでなく、感情を抑え、失敗を避け、周囲の期待に応え続けるためにも注意資源が使われます。外から見ると同じように課題をこなしていても、本人の内側では、はるかに多くの資源を消費していることがあります。
むしろ、取りかかるために強い叱咤や緊張を必要とし、一度始めると止まれず、終わったあとには次の活動へ移る力が残っていないのであれば、「できた」という結果だけを見て支援がうまくいったとは言えません。最後までやり切ったように見えても、その学習は注意資源を使い切ることで成立していたのかもしれません。
前編では、ADHDの子どもの学習を「集中できるかどうか」ではなく、課題に入る、続ける、抜ける、切り替えるために、どれほどの注意資源を使っているかという視点から考えました。中編では、課題が終わることと次の活動へ移れることは同じではなく、注意を解除し、別の対象へ向け直すことにも認知的なコストがかかると述べました。
ここから必要になるのは、過集中に入った子どもをどう止めるかという技術だけではありません。より大切なのは、過集中しなければ課題を進められない状態そのものを見直すことです。
過集中しなくて済む環境とは、ただ課題を簡単にしたり、量を減らしたりすることではありません。何のために取り組むのか、最初に何をすればよいのか、どこまで進めればいったん終えてよいのかという、目標と行動の根幹が本人に分かる形で構造化されていること。そして、本人が「これなら始められそうだ」「ここまではできそうだ」と見通せることが重要です。
その構造を、チェック表、手順カード、見本、タイマーなどによって視覚化することもあります。しかし、視覚化すること自体が支援なのではありません。視覚化は、目的や手順、終了条件を本人にとって理解できる形にするための一つの手段です。立派な予定表を作っても、何のためにするのかが分からず、最初の一手が曖昧で、自分にできると思えなければ、それは新たな負荷になり得ます。
始めるために大きな決意を必要としないこと。最初の一手が具体的であること。目的地と途中の区切りが分かること。達成可能だと思える範囲が示されていること。限界に達する前に止まれること。終わったあと、次に何をすればよいかが分かること。こうした条件が環境の中に用意されていれば、本人が注意を一つの対象に強く固定し、勢いだけで最後まで走り切る必要は少なくなります。
後編では、課題に入るための「最初の一手」と、注意資源を残したまま抜けるための「終わり方」を考えます。支援の目的は、過集中をなくすことではありません。過集中を止めるのではなく、過集中しなくて済む状態をつくる。そのために、学習の目的、入り口、区切り、出口を、本人の努力だけに任せず、環境の側から設計していきます。
褒める前に、「できる見通し」をつくる
子どもが課題に取りかからないとき、私たちは、まず気持ちを高めようとします。
「あなたならできるよ」
「本当は力があるんだから」
「前にもできたじゃない」
「やればできるよ」
励まし、褒め、自信を持たせれば、やる気が出て動き始める。そう考えること自体は自然です。しかし、本人が「自分にはできそうだ」という見通しを持てていないところで、外から言葉だけを重ねても、あまり意味がありません。場合によっては、むしろ逆効果になります。
本人には、何をすればよいか分からない。どこまで続くのかも分からない。以前できたときには、注意資源を使い切るほど頑張った記憶がある。それなのに「あなたならできる」と言われれば、その言葉は自信ではなく、「できるはずなのだから、今回も結果を出さなければならない」という圧力として届くことがあります。
大人にとっては励ましでも、本人にとっては、目の前の課題が簡単になったわけでも、手順が分かったわけでも、終わりが見えたわけでもありません。スターターも目的地も用意されていない車に向かって、「この車は性能がいい」「あなたなら運転できる」と褒めているようなものです。車の性能を評価されても、走り出すための条件は整いません。
賞賛に関する研究でも、褒めれば一律に意欲が高まるわけではないことが示されています。能力や人物そのものを評価する褒め方は、その後に失敗したとき、子どもを無力感や失敗回避へ向かわせることがあります。特に、自分に十分な自信を持てない子どもに対する過剰な賞賛は、期待される水準を高く感じさせ、かえって難しい課題を避けさせることがあります(Mueller & Dweck, 1998; Kamins & Dweck, 1999; Brummelman et al., 2014)。
つまり、「褒めることがよいか、悪いか」という単純な話ではありません。褒め言葉が、本人にとって役立つ情報になっているのか、それとも「もっとできるはずだ」という評価や圧力になっているのかが重要です。
「あなたならできる」という言葉だけでは、本人ができると思える根拠は生まれません。必要なのは、本人の内側に無理に自信を注入することではなく、実際に「これならできそうだ」と判断できる条件を、課題の側につくることです。
何のために行うのかが分かる。どこから始めるのかが分かる。最初にすることが自分にもできる。どこまで行えばいったん終われるのかが見える。困ったときに、どのような助けを使えるのかが分かる。こうした具体的な見通しが整って、初めて「やってみよう」という気持ちが動きます。
順番は、「気持ちを高めてから、できるようにする」ではありません。
できる見通しをつくる。だから、気持ちが動く。
この順番を取り違えたまま、褒め方だけを工夫しても、開始にかかる認知的コストは下がりません。本人が取りかからない理由を「やる気」や「自信」の不足だけに求めるのではなく、目の前の課題が、本当にできそうに見える形になっているかを確かめる必要があります。
そこで支援の出発点になるのが、「最初の一手」を一緒に決めることです。
「宿題をしよう」ではなく、「まずノートを開く」。「作文を書こう」ではなく、「まず題名を書く」。「プリントを進めよう」ではなく、「最初の問題文を一緒に読む」。課題全体を前にして気持ちを奮い立たせるのではなく、本人が実行できる大きさまで、入り口を具体化します。
これは、子どもを褒めない支援ではありません。褒め言葉によって無理に前へ押し出す前に、本人が実際に動ける条件をつくる支援です。
支援者が先に行うべきなのは、「あなたならできる」と言い続けることではありません。本人が「これならできそうだ」と思える課題にすることです。
ご褒美や楽しさだけでは、「できる見通し」は生まれない
褒める以外にも、子どもの気持ちを高める方法としてよく使われるものがあります。
一つは、「ここまでできたらシールを一枚」「三枚たまったら好きな活動ができる」といったトークンやご褒美です。もう一つは、教材をゲーム形式にする、好きなキャラクターを使うなど、活動そのものを楽しくする方法です。
一見すると、前者は外発的な動機づけ、後者は内発的な動機づけであり、反対の方法に見えます。しかし、どちらも課題に取り組む価値を高めようとする点では共通しています。
もちろん、これらが悪いわけではありません。私は、トークンも使い方次第で有効な支援だと考えています。
特に、理解する力はあるのに、「何をすればよいのか」「どこまでやればよいのか」「何をもってできたことになるのか」が曖昧で動けない子どもにとって、トークンは単なるご褒美ではありません。
たとえば、「問題を一問解いたら一枚」「準備が終わったら一枚」「五分取り組んだら一度確認する」と条件が具体的に示されていれば、子どもは「あ、これをすればいいんだ」「ここまでで一区切りなんだ」と課題の流れや構造を安心して理解できます。
このときトークンが支えているのは、報酬への期待だけではありません。期待されている行動、達成の基準、途中の区切りを外側に示すことで、課題の曖昧さを減らしています。言い換えれば、トークンはご褒美であると同時に、課題の構造を見える形にする手段にもなり得ます。
だからこそ、同じトークンでも意味は大きく異なります。
「言うことを聞いたらシールをあげる」という使い方では、支援者の指示に従わせるための取引になってしまいます。一方で、「何をすれば一区切りなのか」を明確にし、本人が進み具合を確認できるように使えば、見通しを支える足場になります。その家庭が大事!
活動を楽しくすることも同じです。好きなキャラクター、ゲーム性、興味のある題材が課題への入り口になることはあります。楽しさが、注意を課題へ向ける手がかりになる子どももいます。
ただし、教材が楽しく見えることと、本人が「できそうだ」と思えることは同じではありません。キャラクターが描かれていても、何をすればよいか分からず、量も終わりも見えなければ、開始に必要な認知的コストは下がりません。
ご褒美や楽しさは、課題に向かう価値を高めます。しかし、それだけで、成功の見込みが生まれるわけではありません。
どれほど魅力的なご褒美が待っていても、本人が「そこまで終えられる気がしない」と感じていれば、ご褒美は遠すぎます。むしろ、「欲しいなら、この難しい課題を最後までやらなければならない」という圧力になることがあります。
大切なのは、ご褒美を使うか、使わないかではありません。
その支援によって、
・何をすればよいかが分かるのか。
・どこまで行えば一区切りなのかが分かるのか。
・自分にもできそうだと思えるのか。
・進んでいることを本人自身が確認できるのか。
を見る(見えるようにする)ことです。
トークンが「あ、これでいいんだ」という理解を生み、次の行動を具体化するのであれば、それは単なる報酬ではなく、注意と行動の足場です。
一方で、課題の曖昧さを残したまま、「終わればご褒美がある」「楽しい教材だからできるはず」と考えるだけでは不十分です。
「できる見通し」は、課題の構造からつくる
では、本人が「これならできそうだ」と思える見通しは、どうやってつくればよいのでしょうか。
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